5月13日水曜日
甘夏2歳のbirthday。
生きるとは生と死が共存するものだということなのかな。
生きることの終点は、死であるけれど、どう生きるかではなくて、いかに生きるかであるという。
犬は、その人生(犬生)、飼い主によって決まるもの。
だから、飼い始める時にはそんなことはあまり考えないにしても、飼っているうちにそれに気づいて、楽しい犬生をおくらせてあげたいと思う飼い主さんが一人でも多いことを願う。
限られた命とわかったあの日から、今日までの出来事がとても鮮明なのはなぜだろう。
記憶に残る場所、瞬間、言葉、表情、空気感。
匂いさえも身体が覚えているような気がする。
柚子が死の宣告を受けてから、あと少しで3ヶ月が経とうとしているが、たくさんのことが蘇る。
母の時もそうだった。
母は自分の最期が近いと予感するものがあったのか、伝えたかったことを最後に言ってくれたような気がしている。
少し寒い桜の季節だった。
この瞬間は今しかない!と、連れ出した車椅子の散歩。
桜を見ながら「夢のようだわ。最高だわ」と言っていた。
そんな風に言ったのは、きっとあの時、身体は辛かったに違いないけれど、私に対する気遣いであったように思う。
私のことを自慢の娘だとも言ってくれた。
「何が自慢なの」と、言う私。
いい加減に生きている娘へのエールであったのかもしれない。
最後は、癌疼痛を軽減するために麻薬を使っていた。
だからなのか、私が訪ねる時はほとんど眠っていた。
けれど、もっともっとたくさんのことを話して、聞いておけばよかったと後悔している。
私が産まれた時のこと、小さい時のこと、亡くなった父のこと、そうそう、今、手元にあるひな人形のこと…、小さなそんなこと、何故聞かなかったんだろう。
聞かなかったのではなくて、限られた時間、あまりにも短かったから…。
外出できないバカな私がいます。
ふと、大好きな映画や美術館に行きたいな。そう思ったりしています。
けれど、結局のところ、柚子を置いて、遊ぶ気分にはなれません。
柚子を看病してあげる存在は私しかいないのです。
数日間、落ち着いています。
そばにいるという安心感が、そうさせているのかもしれません。
週末の公園行きを楽しみに、ウィークデーを頑張って過ごしているのかもしれません。
白目をむいて、時に意識朦朧と辛そうにしている瞬間はたびたびあります。
鼻から始終粘液を出していても、口から出血があっても、柚子なりに生きることにしがみついて頑張っています。
それに応えてあげなきゃ、そう思っています。
もしかすると、人間は病気になった時、複雑な状況に置かれて、本来の形を見失っていつのかもしれません。
病院がなければ、家にいるでしょうし、看護士がいなければ、家族が看るでしょう。
治療法がなければ、自然な死がおとずれるのかもしれません。
どんなことが病人に一番いいことなのかも、もしかしたら見えてくるのかもしれません。
病人が置かれた状況も、病人の立場、看る側の立場、そういうものが存在することによって立ち入れない、そんなこともあるような気がします。
高度な医療で病名を知ることができるということは、果たして本当にいいことなのかと考えることもあります。
けれど、知ることによって、限られた時間をどう過ごすかということを学ぶのも大切なことのように感じています。
仕事があるから…。家族があるから…。
それは、当然、優先すべきこともあるのでしょうけれど、心の声はそうではないと言っているかもしれません。
自分がどうしてあげたいか。
本当はそれが一番、自分が愛している人や動物に対してとる行動のような気がします。
  
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